目次、記録 宇宙の真理  再現性の法則 宇宙の大気 大自然の秘密 古代ギリシャ哲学 エーテル仮説 マイケルソンの実験
分割/不分割の問題 熱力学  エントロピー 空洞輻射 プランクの公式 公理系 次元と単位 重力定数の研究
未知なる粒子  プランク単位系  ボルツマン定数  重力 光の転生 電気素量の算出 ボーアの原子理論 光の正体
ビッグバンの困難  相対性理論の誤解  元素の周期律表  一歩進んだ宇宙論 電磁気の歩み 電磁気基礎知識 マクスウェル方程式 電磁波は実在しない
回転軌道の法則  赤方偏移の真実 周期律表の探究  周期律表正しい解釈  真偽まだらな量子力学 波動 宇宙パワー 
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ドルトンの原子論 
アボガドロの仮説 
電子
原子核、陽子 

5、分割/不分割の問題 

 そこにある石は分割出来るか? [YES]。それでは分割した石を更に分割出来るか?[YES]。更に出来るか?[YES]。・・・・・・・。それでは更に?[NO]。
 この分割、不分割の問題は、太古の時代から人類に突きつけられた最大の宿題といってよいだろう。そしてその問題の回答は、YESかNOのどちらかである。この単純な回答のために、人類科学史上、様々な人が様々な言葉を残している。そこにこの問題の面白さがあるようだ。



5,1 原子論 

5、1、1 古代ギリシャ時代 

 宇宙の構成要素は何かという自然観に対しては、古代文明の各地で色々な説が論じられている。現代に於いてもこの疑問は非常に大きな難題である。  本書の第3章で述べたように、タレスは物質の多様性は一つの始原物(水)から成ると言った。アナクシマンドロスは、始原物はアペイロン(形のない無限なるもの)であると言った。ヘラクレイトスは、万物は火と交換されると説いた。アナクサゴラスは、万物は生成も消滅もしない、無限に分割可能な種子があり、この種子の混合と分離により万物が存在すると言う。エンペドクレスは、万物はこれ以上分割出来ず、互いに転化出来ない四つの元素(火、土、空気、水)より成ると言う。
デモクリトスは、宇宙はアトマス(原子)とケノン(空虚)の二種類から構成されており、原子は分割出来ない最小単位の粒子であると言う。そして、この原子がドルトンの原子説として復活を見る。
 アリストテレスはデモクリトスの空虚は否定し、エンペドクレスの四元素説を認め、第五の元素としてアイテールがあり、このアイテールが宇宙空間全てに充満していると主張した。このアイテールの思想が、後の光波を伝える媒体としてのエーテルへと発展する。四元素の理由に関しては次のように述べている。人には暖、寒、湿、乾の四つの基本感覚があり、その可能な組み合わせにより元素が定まる。湿ったものが寒くなると「水」となり、暖かくなると「空気」となる。乾いたものが寒くなると「土」になり、暖かくなると「火」になる。
以上から分かるようにギリシャ時代における自然感は、個人的な直感による観念的論考が多く、観測による定量的議論に乏しいといえる。

5、1、2 ドルトンの原子説 

 一方、実用的な物質鉱物の分割、融解などは、岩石を採集した卑金属を金や銀などの貴金属に転化する化学技術から発達していく。これ等の技術は錬金術とも冶金学とも言われ、複数の物質を分解、煮沸、融解及び混合し濾過などを繰り返すことで、より純粋な水銀や錫などの金属が得られることから、最終的には「第一物質」とか「賢者の石」が得られるに違いないと考えられていた。賢者の石は、物質を金に転化できるし、万病を癒し、老人を若返らせる力を持つと信じられていたようである。
 時は流れ、紀元後15,6世紀になると、気体、液体、固体に対する分析、観測技術も向上し、実験科学の精密な観測が可能となる。そして十七世紀にはいり化学は新しい転換期を迎える。ロバート・ボイル(1627〜1691)は、化学の真の任務に関し「これまでの化学は、万病を癒すとか万物を金に転化できるとか、狭い原理によって導かれてきた。これからの化学は、科学の進歩と言う高い観点から実験を行い、観察を進めなければならない」。そしてボイルは、これ以上分解することの出来ない物質、即ち究極的な意味での不分割粒子を今日で言う「元素」と定義した。しかし彼は、どの物質が元素なのかを述べていない。熱や光なども元素と考えていたようである。まだこの時代においては、観察事例とその関連性の整理が不足していたのである。このことにより、アリストテレスの四元素の時代は終焉する。そして次の時代の化学者にこの問題は引き継がれる。
 まずニュートンは究極の原子の存在を認め、その当時既に認められていた化学元素は、究極の原子が複数集まりその粒子間力により複合した構造をしており、更に入れ子構造的に結合することで多様な元素を創成しているのではないかと考えていた。この考えを「物理的な原子論」と呼び、この説に基ずいたニュートン流の化学者達は各元素の構造を原子間の力学関係から定量的に解くことを提案した。
 一方究極の原子の特性が全く不明でありながら、その力学的構造を解くのは困難であると考える化学者達は、別の道を進むことになる。この考えを「化学的な原子論」と呼び、その当時進歩してきた精密な実験事実から、異なった元素相互間での結合や分離の化学反応に於いて、重量には一定の規則が存在することに気付く。そこから化学反応における重量の変化に対する定量的な法則を体系化していくことになる。
(1)質量不変の法則 
 ラヴォアジェ(1743〜1794)は空気の分析実験により、空気が基本元素ではなく、酸素と別の気体(窒素)の混合物であることを証明した。その後キャヴェンデッシュ(1731〜1810)の実験などから水が酸素と水素の化合物であることが明らかとなる。このような実験事実から、アリストテレスの四元素説が誤りであることが、完全に証明される。ラヴォアジェは、更に精密実験を繰り返し、それ以上分解出来ない元素表を作成し公表した。その中には水素や炭素、窒素の他熱素や光も入っていた。また、化学反応前の質量の総和と反応後の質量の総和とが、完全に等しいことから「質量不変の法則」を発見する。
(2)定比例の法則
 ブルースト(1754〜1844)は、複数の元素が過不足なく反応し、一つの化合物に変化する際、変化する前の各元素の質量が整数比になっている「定比例の法則」を見いだす。即ちAとBが化合してCが生成されたとき、A:Bの重量の比は不変であるというものである。例えば、酸素と水素が化合して水を生成する際の、酸素と水素の各質量の比は、8:1という簡単な整数比になる。そのことから、質量不変の法則が正しいことを証明する。
(3)倍数比例の法則 
 ドルトン(1766〜1844)は様々な実験結果、例えば水素と炭素の化合物である二種類の、エチレン(C_2_4)とメタン(CH_4)に関し分析した結果、同質量の炭素に対し水素の質量はエチレンでは2倍であるが、メタンでは4倍を要することから、2:4=1:2という簡単な整数比になることを見出す。そして数多くの実験から、特定の同一質量の元素が、他の元素と過不足なく化合し、複数の化合物を生成した場合、それ等の化合物に含まれる他の元素は整数比をなすという「倍数比例の法則」を発見する。
 以上既知となった三つの法則、質量不変の法則、定比例の法則及び倍数比例の法則より、推論を進め、新たな結論へと導いていく。即ち、ドルトンは次のような根拠の薄い作業仮説を立てて推論を進めたようである。ただその時代に於いては、分子とか原子のような極小の世界は、当時のいかなる道具を用いても、見ることも検証することも不可能であったのであるから、当然の試みといえよう。

<私評>: 現代科学では、見ることも検証することも出来ない全く得体の知れないエーテル大気を否定、排除してしまっているが、このような人々はドルトンの時代に原子や分子の存在を認めなかった科学者と全く同じであり、宇宙の真理にたどり着くなどとても出来ないだろう。実際18、19世紀の科学者たちの殆どがエーテルの存在を容認していたことを我々は決して忘れてはならない。人類科学(現代物理学:相対性理論やビッグバン、力の大統一理論など)は、20世紀になってから天動説の時代と同様、誤った方向に進んでいるのである。

(4)ドルトンの原子仮説 
 ドルトンは「化学の新体系」(1820年頃)で次のような作業仮説を設け、原子の存在を明晰化していく。
@ 2種類の元素AとBが反応し、1種類の化合物しか出来ない場合はA+Bのニ元化合物である。
A そして2種類の化合物が出来た場合、一つはニ元化合物で、他はA+B+Aまたは、B+A+Bの三元化合物である。
 以上のような時代背景のもと、ドルトンがどのように原子説まで辿り着いたのか、その思想の発展経路を推察して行くことにしよう。
・質量が1の元素Aと、質量が5の元素Bとが過不足なく反応し一種類の化合物が出来た場合、化合物Zはニ元化合物である。
・次に、質量1の元素Aと、質量7の元素Cが過不足なく反応し一種類の化合物が出来た場合、化合物Yはニ元化合物である。
・更に、質量1の元素Bと元素Cとを反応させ、両元素が過不足なく反応し且つ、一種類の化合物しか出来ない場合、その時化合に要した元素Cの質量は1.4であったとしよう。その際B:Cの質量比は1:1.4とであり整数比にはならない。しかし両方を5倍すれば、5:7となり簡単な整数比になる。
 上記のような考察を複数の元素に対し行うことで、水素が最も軽い元素であることに気付き、水素の質量を1としたとき、他の元素がその整数倍に成っていることを見出したのではないか、ということが我々にも容易に想像できる。
 ドルトンは言う「種々の凝集状態に関する観察だけでも、すべての物体は互いに結合されている極度に小さい微分子、つまり原子の厖大な数から成っているという結論に、辿り着かざるをえない」。このことにより、ギリシャ時代より持たれていた思弁的な原子概念から、実験による定量的手段による新しい科学的概念の確立へと導いて行くことになる。
 しかし、この時代においては原子とか分子などの識別も明確でなかったため、ドルトンも化学反応とは原子と別の原子との結合と分離であるという認識を前提にして理論を構築していた。例えば、水素と酸素が化合し水蒸気になった際、その重量比は1:7(現在では1:8)であることより、酸素の質量は水素の8倍とした。(注:現在では水蒸気が水素2原子と酸素1原子の化合物であることが知られているので、酸素の質量は水素の16倍である)。また彼は原子とは分割不可能で硬くて侵入出来ない究極の粒子という意味で用いていた。
 ドルトンはこれらの結果を記号を用いて、水素原子の質量を1とした際の原子表を作成する。しかしその内容は下表に示すごとく決して正しいものとは言えなかった。しかしこの実績は、ギリシャ時代から語られてきた定性的、思弁的な原子論から抜け出し、科学的原子論の道を切り拓く第一歩となりドルトンの素晴らしい功績と言えるだろう。


    表5−1:ドルトンの原子表の一部 

      原子名      質量
    @ 水素:       1 
    A 窒素:       5 
    B 炭素:       5 
    C 酸素:       7 
    D ナトリウム:    21




5、2 アボガドロの仮説 

 ドルトンは1808年、原子論を発表したが、これらは化学反応における重量比の規則性から導いたものである。他方、ほぼ同時期にゲイ・リュサック(1778〜1850)は、化学反応の際、体積比にも規則性があることを発見し、この面から研究を進め気体反応の体積法則を公表する。これは「二つの同体積の異なった気体が完全に化合した際、化合後の体積が簡単な整数比になる」というものである。例えば水素気体の体積=2と酸素の気体の体積=1を混合した際、体積2の水蒸気となり、化合前とその後では体積の総量の比が3:2の簡単な整数比になる。また水素気体の体積=3と窒素の気体の体積=1を混合した祭、体積=2のアンモニアの気体を得る。これは化合前と後の体積の総量の比は、4:2=2:1という整数比になる。
この事実はドルトンの原子論からは説明が困難であった。そこでアボガドロは1811年、この体積法則と彼が行った数多くの実験結果から、ドルトンの解釈は誤りであることを説明し、次のような仮説を提唱する。
「温度と圧力が等しい気体では、気体の種類が異なっても、同一体積内に含まれる分子の数は同一である。」 例えば温度と圧力が等しく体積が同一ならば、その体積内に存在する分子の総数は、酸素の分子でも、二酸化炭素の分子でも気体の種類によらず同数である。
この仮説により、これまで曖昧であった原子とか分子の言葉の意味が明瞭となり、その存在さえ疑られていた見ることも出来ない未知なる微小粒子を定量的に観察することを可能とし、原子、分子の存在を確実なものとする。
@ アボガドロ定数 
 現在では、温度が0℃、圧力が一気圧のもとで、1モルの気体の体積(約22、4リットル)内に含まれる分子の数をアボガドロ定数と呼び N で表す。
     N = 6.022x1023 モル−1
A モル数 (グラム分子)
 各原子は原子量を有し、例えば水素は1、酸素は16で、その分子の分子量は、水素は2、酸素は32となる。その分子量のグラム数を1モルと定義している。水素分子の気体の場合は2グラム重の気体が1モルとなる。
B 原子の大きさ 
 原子の存在が確実なものとなると、次にその大きさがどの程度かという課題が浮上してくる。気体は分子同士が離散しているため分子の大きさを特定するのは困難である。しかし、個体は各原子が隙間なく結合していると推定できる。
 1原子の半径をr とすると、金属内の1原子の占める体積は (2r) である。その金属の密度をρ(g/cm) 、原子量をz とすると、金属1モルの体積は z/ρ である。従って 1原子が占める体積は  (2r) = z / ρ・N 。
よって、原子の半径は  r=1/2・(z/ρ・N1/3  。
 銅の場合、原子量:63。 密度:8.9。 
この値を代入し計算すると、半径はおよそ r=1.14x10―10 (m)。 


5、3 電子 

5、3、1 電気素量 
 ファラデー(1791〜1867)は、1833年に電気分解の実験から電気素量を発見する。これは、電気分解によって電極に析出した物質の質量Mは、流れた電気量Qに比例し、また流れた電気量によって分離される質量はその物質の化学当量に比例する。
 ここで化学当量とは、原子量をその原子価で割ったものである。例えば水素は原子量=1 で原子価は1 であるから化学当量は1。酸素は原子量=16 で原子価は2であるから化学当量は8。
原子価:原子は他の原子と結合できる手を持っておりそれにより多様な分子が生成される。その手の総数を原子価という。
 この電気分解の法則から析出される質量Mは次の式が得られる。 
M=(1/F)・(Q)・(Z/n)。 ここで、F:比例定数。 Z:原子量。 n:原子価。  実験の結果、析出した物質の質量が1モルであった場合を考える。そして原子価の一つの手が運ぶ電気の単位をqとしたとき、運ばれる電気量は 
Q=N・nq 。またM=Z であるから 上式は  
Z=(1/F)(N・nq)(Z/n)。よって、  q=F/N   を得る。
   その後、実験により  F=96500 (クーロン/グラム当量)。このFをファラデー定数と呼ぶ。以上から、電気量の最小単位は、FをN で割った値となる。
 電気素量 e = F/N = 1.60 x 10−19 C(クーロン)
 その後、1909年にミリカンの実験により、電気素量の精密な測定が行われ上記の数値と等しいことを明らかにする。
5、3、2 電子の発見 
(1)陰極線 
 細長いガラス管の両端に陰極と陽極を設け、高電圧をかけると放電が生ずる。陰極の前に小物体を置くと前面のスクリーンにその影が生ずる。この現象は陰極から何かが放出されると考えられる。これが陰極線と呼ばれるもので、その装置の発明者(クルックス:1832〜1919)の名をとってクルックス管とという。 
(2)トムソンの実験 
 J.J.トムソン(1856〜1907)は、この陰極から出た陰極線は負の電荷を有した同じ粒子の集まりではないかと推定した。そして図:5−1のような装置を考案する。



                     図:5−1 j.j.トムソンの実験装置 

 図において、陰極Aから陰極線は陽極Bに向かって直進し、電極板P(+電荷)、Q(ー電荷)に向かって進む。陰極線が電荷を有している場合は、上下のどちらかの方向に曲げられ(図では下向き)、蛍光版に衝突する。ここで、粒子の電荷をe、質量をm、速さをvとし、電極板間の電場をE、長さをd、蛍光版までの距離をs、蛍光板に当たるまでのズレをδとする。  粒子は電極板に入るとeE/m の加速度を受ける。そしてその時間はd/v である。電極板を出るときの粒子の下方への速度vxと位置のずれδは、
    vx=加速度x時間=eE/m・d/v 
     δ=1/2・加速度x(時間)=1/2・eE/m・(d/v) 
 また蛍光板に当たるまでの時間は s/v であるから下方へのズレδは 
       δ=下向き速度x時間=eE/m・(d /v・s/v) 
従って蛍光版での位置のズレδは、
   δ=δ・δ 
=eEd/mv2(s+d/2)  <5−1式>  を得る。
 ここで、電場E、距離d、sなどは測定可能であるが、粒子の質量m、速度v、電荷eは未知数であるためこの実験結果からでは、陰極線の質量などの数値を特定することは困難である。
(3)磁場における実験 
 次に上記の実験装置の両サイド(前後)から磁場Bを電極板と直交するようにかける。この時、陰極線の荷電粒子にかかる力即ちローレンツ力が上向きになるよう磁場を調整する。従って荷電粒子には、電極板からの力=eE を下方に受け、また磁場からはローッレンツ力=evB を上方に受ける。この両方の力が釣り合った時蛍光板でのズレはなくなる。
 そこで v=E/B  
 得られた速度vを<5−1式>に代入し整理すると
 m/e =dB/E ・(s+d/2)を得る。ここでE,B,s,d は測定可能であるから、m/e の数値は得られる。 
(4)電子の質量
   荷電粒子の電荷e を電荷素量と同一であると考えた場合、ファラデーの実験などから知られているのであるから、この粒子の質量m が求まる。
 その結果は、 電子の質量m=9.109 x 10ー31(kg)
 1897年、電子の発見である。


5、4 原子核 

 陰極線の正体が電子であることが分かってくると、実験結果から金属を高温に熱すると電子が放出されることも分かってきた。更に、キューリ夫妻によるラジウムなどの放射性崩壊元素の発見、放射線にはα(ヘリウム)、β(電子)、γ線(光波)の3種類があることなどが観測される。 
5、4、1 原子模型 
 このような様々な観測事実から、原子とは究極の粒子ではなく、電子などを含む複数の粒子の構造物であると考えられるようになる。 
 トムソンは、ぶどうパン型の原子模型を考えた。+電荷を持った重い粒子が複数存在し、その中に軽い電子が散在してるというモデルである。一方ラザフォードは原子の内部は電子が均等に散在し、その中心に+電荷を有する重い核が存在するモデルを考えた。
5、4、2 有核原子モデル 
 1911年、ラザフォードは有核原子モデルが正しいかどうか確認するため、薄い金属箔に向かってα粒子を速度vで衝突させる実験を行う。その時のα粒子の進路は金属箔を貫通し、そのまま直進するもの、多少進路を曲げるもの、大きく曲がるものなどあることが観測された。
 ここで、原子の半径をR、原子の中心をO、中心からα粒子までの距離をr、原子核の電荷を+Ze、とする。この時α粒子の電荷は+2eであるから、α粒子が原子核から受ける力は斥力で、
\[f_1=\frac{2Ze^2}{4\pi\epsilon_0r^2}\]    原子内の一様に分布した電子から受ける力は引力で、
\[f_2=\left(\frac{-2Ze^2}{4\pi\epsilon_0r^2}\right)\times \left(\frac{r}{R}\right)^3\]       その総和は \[f_1+f_2=\frac{2Ze^2}{4\pi\epsilon_0r^2}-\frac{2Ze^2}{4\pi\epsilon_0r^2}\times \left(\frac{r}{R}\right)^3=\left(\frac{2Ze^2}{4\pi\epsilon_0}\right)\times \left(\frac{1}{r^2}-\frac{r}{R^3}\right)\]  そして速度v のα粒子の質量をm とすると、その運動エネルギーは 1/2・mv 
 また粒子が原子核に接近し原子内に侵入すると核からの斥力を受け粒子の速度は減速する。運動エネルギーを失った分、位置エネルギーが増す。原子核内で粒子が受ける仕事の量は粒子が原子に飛び込んで来た半径Rから、核に接近してきたr'までの積分で表せる。よってその仕事の総量Vrは、
\[V_r=-\left(\frac{2Ze^2}{4\pi\epsilon_0}\right)\times \int_{R}^{r}\left(\frac{1}{r'^2}-\frac{r'}{R^3}\right)dr'=\frac{2Ze^2}{4\pi\epsilon_0}\left(\frac{1}{r}+\frac{r^2}{2R^3}-\frac{3}{2R}\right)・・・(r<R) \] <最短近接距離> 
 α粒子が原子核に接近するに従い斥力も強くなり、粒子の速度は減速する。そして位置エネルギーの総量が、初期の運動エネルギーと等しくなると粒子はそれ以上核に接近することが出来ない。その時の半径riが最短近接距離となり、次式で与えられる。
\[\frac{2Ze^2}{4\pi\epsilon_0}\left(\frac{1}{r_i}+\frac{r_i^2}{2R^3}-\frac{3}{2R}\right)=\frac{1}{2}mv^2\]  
    また、α粒子の運動エネルギーはビリウム(Bi)などから放射され、ガイガー(1882〜1945)等の測定により大体知られており、その値:8.99x10ー13 J(ジュール)を代入し計算すると、
\[\left(\frac{1}{r_i}+\frac{r_i^2}{2R^3}-\frac{3}{2R}\right)=\frac{1}{2}mv^2\div \left(\frac{2Ze^2}{4\pi\epsilon_0}\right)=8.99\times10^{-13}\times \frac{4\times3.14\times8.85\times10^{-12}}{2\times\left(1.6\times10^{-19}\right)^2\times Z}=\frac{1.95\times10^{15}}{Z} (m^{-1})\]  を得る。
 この値の逆数は、その当時知られていた原子の半径:10ー10に比べはるかに小さい。よってRで割った項は省略できる。従って、最短近接距離は
     ri = 5.12x10ー16・Z m を得る。

5、5 陽子 

 ラザフォードは1919年、密封した容器の内部に窒素(N)ガスをみたし、その中に放射性物質を置きα線(ヘリウム原子)を放射する実験を行なった。その際、α粒子とは異なった粒子の発光を観測した。実験を繰り返し調べた結果、この異なった粒子は、水素イオンと同じものであることをつきとめた。このことは窒素原子にα粒子が衝突した際、窒素とα粒子の一部が結合し酸素原子に変換され、残りの一部がこの異なった粒子と考えられる。これが水素の原子核で、陽子と呼ばれるようになる。この実験が人工的に原子核変換を行った最初の報告である。
  窒素の原子核 + ヘリウムの原子核 = 酸素の原子核 + 陽子(水素の原子核) 

5、6 中性子 

   陽子が発見されると、原子核が陽子だけから構成されているか疑わしくなってくる。例えばα線を空気中に放射すると、酸素O17と水素H が放出される。これは窒素N14 とヘリウムHe とが核反応で生じたものである。
(1)ラザフォードによる予言 
ラザフォードは、窒素、ナトリウムなど様々な原子にα線を照射し実験した結果、原子核が陽子だけで構成されていると、その質量数などを説明することが困難であることを悟る。そして中性子なる仮想粒子を考えることで、酸素などの重い原子核の機構をうまく説明できることを1920年に提唱する。そしてこの中性子は電荷を持たず、質量は陽子とほぼ同じであろうと予言する。
 1930年には、ボーテ(1891〜1957)と弟子のベッカーとが、ベリリウムにα線を照射する実験を行っている時、二次放射線が現れるのを発見した。この二次放射線は薄い金属箔(鉛など)を容易に貫通し、エネルギーも大きい物であった。
(2)中性子の発見 
 このベリリウムからの二次放射線に関してはキュウリ夫妻も強い関心を持ち、同じような実験を繰り返し、2〜3センチの鉛の板をも貫通してしまうことから、非常に強いγ線だろうという見解をしていた。
 一方チャドウィック(1891〜1974)は、自ら設計した実験装置を用い色々調べた結果、ベリリウムからの二次放射線は、陽子とほぼ同一の質量を持つことをつきとめた。また電荷を有する陽子の場合は3ミリの鉛の板を貫通できないが、この二次放射線は2〜3センチでも貫通することから電荷を持たない中性粒子であることが確証された。このようにして中性子はチャドウィックにより1932年発見された。
  



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