宇宙の大気・正しい自然科学

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回転軌道の法則  赤方偏移の真実 周期律表の探究  周期律表正しい解釈  真偽まだらな量子力学 波動 宇宙パワー 
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加速度を操る謎の犯人
思考実験
慣性の法則の正しい理解
エーテル大気の特性

1、5 宇宙の大気(エーテル)

 無いものを探る

 人類にとって最も困難な仕事は、無いと思われるものを認知し、それを分析し明確化して行くことである。石や木その他目に見える物なら容易にその存在を知ることが出来るし、その量も数えることが出来る。目の不自由な人でも、手で触れるなどしてその存在を認知出来る。人は五感より得た刺激を通して、又過去の色々な体験などから、その存在を認識して行くのである。それでは五感で知ることの出来ないもの、例えば空気の成分、太陽の温度などを、人はいかにして明らかにして来たのであろうか。又何も無いと信じられている空間が、真実何も無い状態である事を証明できるのだろうか。

(1) 0(ゼロ)の使用 

   数学の歴史書によると、数を使用した最古の記録は約2万年前で、アフリカ大陸のコンゴ地域で発掘されたようである。エジプトなどの各地の古代文明でも数は頻繁に使用されており、その使用形態は文明ごとに多少の相異はあるが大体似通っている。  数字の桁単位ごとに異なった記号を設け、例えば100の位には#の記号を、10の位には*の記号を、1の位には&の記号を使用するとしよう。すると426を表現するには、(左から1の位、10の位と読む) &&&&&& ** #### と記し、403なら、&&& #### と記し、10の位は書かない。このような表現方法が何千年にも亘り使用されることになる。なにも無いという概念は存在したが、記号は使用されなかったようである。その後、一から九までの数字記号を用いる記数法が中国やインドで使用されるようになるが、ゼロらしき記号は記録には残されていない。
 ゼロらしき記号が用いられるようになったのは、紀元後500から600年頃で、カンボジアや中国で、点の記号に似た文字が現代風の0の記号として使用されている。「この0の使用は長い数学史の中でも貴重な出来事である」と語る専門家も少なくない。
このように、無いものを表現するに至るまでには、数を使用し始めてから、かなりの歳月を必要としたようである。

(2)空気 

   空気は目で見ることは出来ないが、その存在は風が吹くことや呼吸を止めると苦しくなることなど多様な現象から、古くから知られていた。しかし、その実体となると様々な説がある。例えばギリシャ時代には、これ以上分割できない最小単位の四元素(空気、火、土、木)が在り、自然界に存在する全ての物はこの四元素から創造されるという考えもあった。空気は複数の元素の中の一種類であると見做されていたようである。
 また十八世紀には、木や石炭などの物が燃える現象を、可燃性の物体には燃える物質が内在するに違いないと仮定し、その物をフロギストン(燃素)と呼んだ。そして燃焼とはこのフロギストンが物体内部から外へ飛び出す現象であるとされていた。更に、錫などの金属を長時間加熱して得られた金属灰が、燃焼する前の金属より重くなることが知られており、この事実からフロギストンはマイナスの質量を持つとも考えられていた。しかしラヴォアジェ(1743〜94)は巧みな実験により、物体の燃焼は、物質内にフロギストンを含んでいるのではなく、空気中には呼吸(燃焼)に適した気体(これを生命空気と呼んだ)と、適さない気体とがあり、燃焼とは物質と生命空気とが化合する際生ずる現象であることを立証した。
 そして燃焼後の金属灰が重くなる原因は、物質と生命空気とが化合した結果であることを定量的に測定した。更に生命空気と生命に適さない空気との比率が27対73であることも示している。現在では、生命空気を酸素と呼び、生命に適さない空気を窒素と呼んでいる。

(3)真空

 現代、我々が一般に用いている「真空」という言葉の意味は、原子や微粒子などの物質体(可量粒子)が全く無い空間で、熱や光に対してはあまり明確化してない空間を指すことが多い。しかしこの言葉の解釈となると、歴史的には大変複雑で、その時代の科学的背景により二転、三転しているのである。
 まず、歴史的に古い順に記していくと、ギリシャ時代のパルメニデスは「無いものは考えることさえ出来ない、故に空虚な空間は無い」と言った。またデモクリトスは、物質にはこれ以上分割できない原子(アトム)が存在し、その原子の多様な運動から全ての物が創造されたのだと言う。そして、原子が運動するには空虚な空間が必要で、故に、原子も空虚な空間も同じ資格を有すると言う。この「空虚な空間」が現代用いられている「真空」に近い。
 次に、約100年後にアリストテレスは、デモクリトスの言う空虚な空間を否定し、何も無い空間など無意味(ナンセンス)であると喝破し、「自然は真空を嫌う」と言う。宇宙は全空間にわたり、天の気(アエテール、現代ではエーテル)というもので満たされており真空は存在しないと主張する。ここで言う真空とは、パルメニデスの言う空虚な空間に近い。彼は真空が存在しない理由として、物体が媒質密度の異なった空間を落下する際その速度はその媒質密度に比例する。例えば水の密度が空気の密度より10倍高ければ、同一距離を落下するのに、空気中を落下するに要する時間は、水中を落下するときの十分の一である。もし真空が存在するならその物体は同一距離を落下するのに時間を要しない。時間を要しない運動は不可能である。故に真空は存在しないと結論付ける。
 それに対し、ガリレオは物体が鉄製の場合と木製の場合などを例に、アリストテレスの論証は誤りであることを説明している。しかし“大きな真空”は存在しないかもしれないとも述べている。ただ、この大きな真空がどのようなものか明確にのべていない。
 又ガリレオは、井戸で水をくみ上げた際、井戸の水面から10m以上になると、くみ上げることが出来ないことから、真空の存在を認めている。
 実験的に、最初に真空を作りだしたのはガリレオの弟子のトリチェリ(1608〜1647)である。一端を閉じた長いガラス管に水銀を満たし、水銀槽にさかさまに立てると、上部に空間ができ、ガラス管の形をいろいろ変えても、槽の面から管内の水銀面までの高さが一定(約76cm)であることを確認した。このガラス管内の上部に出来た空間を“トリチェリーの真空”と呼ぶ。現在では、真空と言った場合、このトリチェリーの真空を指す場合が多い。
 このような真空状態を手に入れると、色々な特性が明らかになってくる。光や熱は真空中を伝達するが、音は伝わらない。物は燃えず、生き物は死ぬなど。そこから音を伝える媒質が空気であることが明確となり、同時に真空といえども光や熱を伝える得体のしれない媒質が存在するに違いないと認識されるようになる。この媒質をエーテルと呼び、真空は真に空虚ではなく、エーテルで満たされているという説が、18,19世紀においては主流となる。しかし、現代では光の粒子説や、相対論及び様々な実験結果からエーテルの存在は否定されているが、それが正しという結論はでていない。
 以上のように、真空とか空虚な空間という言葉の意味は、その時代や書物により多少の相違がある。それ故本書では、空虚な空間と真空との言葉の違いを少しでも明確にするため、次のように区別している。
  <真空> : 空気やその他我々が一般に物質と呼んでいるものが全く無い空間。トリチェリーの真空に同じ。ただしそこには、五感や測定器では感知できない、エーテルのような媒質があるかもしれない。
<空虚な空間> : 何も無い空間。エーテルのような未知なるものもいっさい無い空間。なにも無いことすら証明することのできない空間。故にパルメニデスの言うように、このような空間に意味があるかどうか大変疑問である。

1、6 加速度を操る謎の犯人 

 我々は幼い頃より静止した物体(ボールなど)に力を加えると動くことをよく知っている。与える力が強いほど、物体が速く動くことも自然と学ぶ。このような運動に対しギリシャ時代のアリストテレスは、ボートをオールで漕ぐことで船の速度を一定に保つ.ことができ、漕がないと減速してしまうこと、石を水平に投げると速度が遅くなることなどから「物は外部から何ら力を与えないと静止する」と解いた。この考えは中世のヨーロッパでは長い間、正しいと理解されていた。しかしガリレオは、高速で走っている船の帆柱の上から物を落下した際、帆柱の真下に落ちるという事実から「物体は外から何ら力が作用しないときは、静止または等速直線運動を継続する」ことに気が付いた。デカルトは斜面の落体実験などの観測よりガリレオの考えを慣性の法則として一般化する。このような物体に力が作用する同じ疑問に対し、その解釈の相違により全く異なった見解が得られたことになる。
 現代ではどちらが正しいかは誰でも知っているが、ガリレオの時代にはその正しい判断の出来る能力のある人が殆んどいなかった。現代では容易に理解できることでも、その当時の人々にはなかなか理解されなかったようである。
 このことは現代科学に於いても同じようなことが言えるのではないか。即ち真実は正しくないにもかかわらず、理念に合致しない首をかしげるような理論が正しいと認識されており、その過ちに気付き反駁できる能力のある者が誰もいないため、いつまでも誤った認識から抜け出せない状態にあるということで、現代正しい、分かっていることだと思われている近代理論の中にも、そのような可能性のある原理や法則が充分あり得るということを強調しておきたい。
 学校で教わったこと、先人の書いた理論を理解し信奉することもとても重要ではあるが、それ以上に自然科学を正しく理解し、真理を探究するには、これまでの既定概念にとらわれることなく、自然現象を見るがまま素直に受け入れ、あらゆる観点から考察し、より正しい解釈に達することが重要なのではないか。
   ニュートンはガリレオの考えを更に発展させ、力と運動の法則として体系化して行く。
   力=質量×加速度、  速度=加速度×時間 など
 そして誰にでも容易に物体の速度や到達距離を算出し、その予測を可能にするような方程式を導き出す。これ等の出来ごとにより人類科学は、ガリレオの言う新しい科学に向かい急速に発展して行く。
 ここでは、300年近くもの長期に亘り支持されてきたニュートンの力の法則を、更に異なった観点から捉えることにより、今までには考えられなかった新しい発想に到達することが出来たので、そのことに関し詳述することにしよう。


 1、6、1 思考実験

 加速度とくれば我々が最も身近に感じるのは、自動車のアクセルを踏んだ時に体験する、上半身が後ろの背もたれに押し付けられる時の感触である。この幽霊に押されたような謎の力を我々は「見かけの力」 と呼び、あたりまえの現象と見做され、現在においても科学的に深く考察されていない。
 上記したように物体の運動の自然現象にたいし、アリストテレスとガリレオの解釈の相違により、自然科学に対する考えが一転してしまうことを、我々は歴史上から学んでいる。  この「見かけの力」に対しても同じことがいえそうである。即ち、「この力は見かけのものではなく、 物理的に実在する本当の力であると見做すべきなのである」。そしてこれまでのように曖昧な力としてではなく、現実の力として科学的に考察し定量的に明晰化していくことが重要なのである。そのような観点から自然現象を素直に捉え、論考していくとどうなるか、それをこれから説明していこう。
 そこで加速度が増加すると何故上半身が、後ろに押されるのだろうという、非常に素朴な疑問から出発することにする。その為、次のような思考実験を試みよう。
 まず特別なバスがあるものと考える。特別といっても大がかりなものではなく、バスの天井の上がテラスの様になっており、そこにバスの座席が動かないように頑丈に固定されている。又、バスの中から上のテラスまで昇れる階段も備えられている。更に特別な条件として、窓という窓は全て閉じられており、外部と内部の空気は完全に分離され、バスが走っても内部では風が起こらないようになっている。このような条件でバスを走らせると運転手や乗客はどのような体感を得るか調べてみよう。
 乗客を何人か乗せ運転手がエンジンをかけ、アクセルを踏むとバスは勢いよく速度をあげながら走り出す。この時のバスのスピードは基本的には力の運動法則によって決まる。
 F=m・α  より  α=F/m 。  また v=α・t 。
ここで  F:エンジンの出力   m:バスの重量   α:加速度     v:バスのスピード   t:時間(秒) 。
 上記で「基本的には」と書いたのは、現実の地球上では色々な抵抗力が混在し、このように単純計算ではいかない。しかしここでは正確な数値や計算を問題にしているのではないので省略する。この式からエンジンの出力(F)、即ちアクセルを足で踏む力が大きいと加速度(α)が大きくなりバスのスピードが速くなる。この事は自動車を運転する人なら誰でも実感している。  さて、この時運転手は全く同じ力でアクセルを5秒間踏み、その後瞬時にアクセルから足を離したとしよう。この時バスの5秒後のスピードは、加速度に時間を掛けた値となる。
 v= 5・α 。
 運転手がアクセルを離した後、バスは一定の速度(v)で前進する。(現実には色々な抵抗力があるため少しずつスピードは落ちる)このような状況において、バス内に座っている乗客はどのような体感を受けるだろうか。
 運転手がアクセルを踏むと同時にバスは走り出し乗客は皆、特に前方から誰からも押されていないにもかかわらず、何者かに後ろの背もたれに押し付けられ上半身が倒れる感触を持つだろう。そして5秒間はこの状態が続き運転手がアクセルを離すと、その瞬間から元の状態、即ちバスが停止している状態と同じとなる。
 次に運転手は前方の信号が赤色に変わったので、ブレーキを同一の力で3秒間踏み、横断歩道の前で停止したとしよう。この時乗客は、運転手がブレーキを踏むと同時に、発射のときとは逆に何者かに後ろから押されるような、上半身が前方に倒れる感触を受ける。そしてバスが停止するまでの3秒間はこの状態が続く。以上がバスの内部に座っている乗客が体験することである。
 次にバス上のテラスの座席に座った乗客はどうかを調べてみよう。天候もよく空気大気の風は一切無いと仮定する。バスが停止状態においては内部の客と同様とみてよい。いよいよ発進である。発進と同時に五秒間は、みかけの力により背もたれに押される感触はバス内に座っている乗客と同様である。違うのはバスが少しずつ速くなるに従い空気の風圧も強くなる点である。そして五秒後に風圧は最高となり、バスの等速運動中は風圧の変化は生じない。運転手がブレーキを踏みバスのスピードも遅くなり、風圧も無くなる。
 以上の結果から、バスの中の乗客とバスの上の乗客が感じる相異は、バス上の乗客はバスのスピードが速くなると風圧が強くなっていくが、バス内の乗客には風圧は全く生じない点である。それ以外の点、即ちみかけの力により背もたれに押し付けられる感触などは全く同様であることが分かる。
 さて、今度は更に高度な走行方法により乗客は新たな体験が出来るかどうか調べてみよう。この走行には特殊技能を有した運転手に登場してもらおう。どのような特殊技能かというと、アクセルを等速度の変化で踏んでいくことの出来る技能である。
 今までの運転手は、発進と同時にアクセルを一定値に踏み五秒間はその値を保ち、その後アクセルから足を離しゼロにもどした。今度の運転手は、発進と同時にアクセルの深さをゼロから等速度で増していき五秒後に一定値の深さに持って行ける、超すぐれ者の運転手である。その後アクセルから足を離す。このような場合、バス内の乗客はどのように感じるだろうか。アクセルを少しずつ深く踏んでいくのであるから、最初は弱く背もたれに押される感じで、その力が徐々に増していき、五秒後以降は以前の運転手の場合と同様の感触を得ることになる。以上でバスによる試乗実験は終わることにする。


1、6、2 慣性の法則の正しい理解

 このような走行方法により、いかなる新叡智が得られるだろうか、分かり易く表にまとめてみる。

 実験 (1)
背もたれに
押し付けられる原因
乗客v=0
α=0
停車時
v=αt
α=一定
一定の加速度
v=v
α=0
等速運動
v=v−α’t
α=マイナス一定
減速
v=0
α=0
停車時
(空気の風)
 犯人A
バスの中
バスの上少しずつ
強くなる
一定少しずつ
弱くなる
(見えない力)
 犯人B
バスの中一定の強さで
押される
一定の強さで
反対方向に押される
バスの上同上同上同上同上同上

   v:バスのスピード, α:加速度、 t:時間

 実験 (2) 
背もたれに
押し付けられる原因
乗客停車時 加速度を少しずつ増加
等速運動
(見えない力)
 犯人B
バスの中少しずつ強くなる
バスの上同上同上同上
(新しい力)
 犯人C
バスの中同上同上同上
バスの上同上同上同上


 この表の中に一体何が潜んでいるか慎重に探索していこう。この表で犯人A、B,Cは風や加速度を操る謎の犯人である。この謎の犯人が誰かを知ることが重要である。  まず、バスの上ではバスのスピードに比例して風が強くなる。この風を起こす原因が地球大気の空気圧であることは誰でも知っている。故に謎の犯人Aは大気圧(空気)である。バスの中では風が吹かないので、ウインド・ガラスや鉄などでできた車体は空気大気を完全に遮断してしまうことも分かる。
 次に犯人Bに移ろう。この犯人は表から見て分かるように、加速度がゼロのときは全く姿を見せない。加速度が増してくると、それに比例して犯人Bも増してくる。故に加速度が関係している事は確かである。
 又、この事象は慣性の法則(ニュートンの第一法則)としても、あまりにも有名である。即ち、物体は他に何も力が働かない限り、静止または等速直線運動を継続する性質を持っており、その物体固有の力が惰性または慣性の力である。この観点から見ると乗客は静止したバスに座っている時は、その位置に停まろうとする力が働き、その結果としてバスが発車すると座席の背もたれに押し付けられるのだという考えである。これは 確かに正しいと思える。
 又、ダランベールの原理としてもよく知られている。物体を離散粒子の集合体とみなし、これらに働く全ての力の和をゼロとし、物体が静止している時外力は0で内力も0を保つ。物体に外から力が働くと、全体の力がゼロになるよう内力が働く。この内力により背もたれに押し付けられるのだという説である。
 F(外力) − m・α(内力) =0
  この考え方も確かに正しいと思える。  しかし本書ではもう一歩踏み込んで、この犯人Bの現象を次のような観点から捉えて考察することにする。
 バスの上の乗客はバスが一定の速度で走っているときは、風圧の抵抗を受けて背もたれに押し付けられる。この原因は空気大気である。それと同様、バスが一定の加速度で走っているときは、エーテル大気の抵抗を受けるため背もたれに押し付けられると考えるのである。
 このような観点から背もたれに押し付けられる現象を観察するとどうなるだろうか。まず、空気大気が無風の場所で物体が静止している時、風も吹かず風圧も作用しない。この状態を我々は空気に対して物体が静止する力を持っているとはあまり言わない。また空気の中を物体が等速直線運動をしている時、空気に対し物体が静止しようとする力が働くから背もたれに押し付けられるとは考えない。空気大気の風が身体に当たり、背もたれに押し付けられると考える方が一般的といえる。
 それと同様、物体が加速度運動している時、エーテル大気の風が身体に当たり背もたれに押し付けられると考えるべきである。物体は静止または等速直線運動を続ける力を持っているから押し付けられるのだという考えは、誤ってはいないがあまり正しいとも言えないことが分かる。我々は今日まで絶対不動の神山の如く聳え立つ慣性の法則を、新しい角度から見直すべき時期が来たのではないだろうか。
 話をバス実験に戻そう。試乗実験から分かることは、犯人Bは静止又は等速直線運動のときは姿を見せない。速度の変化を生じたとき、即ち加速度が生じたときに姿を現すのである。又この犯人Bはバスの中でもバスの上でも無関係に姿を現すのが分かる。このことからガラスや鉄板などでは、犯人Bを遮断することは出来ないといえる。おそらく何百、何千枚の鉄板やガラス板を重ね合わせても、全く用をなさないだろう。そしてこの犯人Bは言うまでもなく、エーテル大気である。
 次に犯人Cに移ろう。  物体の位置の変化が無い時はその物体は静止していると言う。位置の変化に対しては速度が増し、空気との抵抗が生ずる。速度の変化に対しては加速度が増し、エーテル大気との抵抗が増す。それでは加速度の変化に対してはどんな抵抗が生ずるのだろうか・・・。実験(2)の表より、犯人Bと犯人Cの相違を比較すれば、その結果を知ることが出来る。表の結果から犯人Cは犯人Bと全く同じである。故に犯人Cは存在しないと解釈してよいだろう。このことは我々の住む宇宙には、エーテル大気が最小のものでこれより小さい謎の犯人は存在しないと見做してよいのではないか。
 又、大地に対しては物体が静止していて空気も静止している時は抵抗も無く風も吹かない。しかし、物体が静止していても空気が移動していると風が吹く。エーテル大気に対しては、物体が加速運動してるときはエーテル大気の抵抗を受けるが、物体が静止又は等速直線運動をしている時は、全宇宙空間において全く抵抗は生じない(ただし重力場が存在する場は例外である)。このことはエーテル大気とは、全空間において完全なる絶対静止状態であると解釈してよいだろう。

1、7 エーテル大気の特性

 最後にこの思考実験より得られた貴重な結果をまとめてみる。
(1)地球上に空気大気が存在するように宇宙にはエーテルの大気が存在する。
(2)空気大気に対し、物体が静止している(速度がゼロ)時は抵抗(風)が無く、速度(位置の変化)が速くなるに比例して風も強くなる。
(3)エーテル大気に対し、物体の速度が一定(加速度がゼロ)の時は抵抗が無く、加速度(速度の変化)が強くなるに比例して抵抗も強くなる。
(4)空気大気は、鉄板や窓ガラスにより完全に遮断できる。
(5)エーテル大気は、鉄板や窓ガラスでは全く遮断出来ない。故に、エーテル大気は全ての物質体内部(原子核や電子などの素粒子内部)にも容易に浸透している。
(6)加速度の変化に対する抵抗力は存在しない。即ち、エーテル大気より極小のものはない。
(7) 空気大気と物体が伴に静止、または同一速度で移動してしているとき、どちらも抵抗力はなく区別がつかない。空気大気が静止で、物体が移動したとき、物体は抵抗(風)を受ける。物体が静止で空気大気が移動しても物体は抵抗(風)を受ける。
(8) エーテル大気と物体が伴に静止または非加速度運動しているときは、どちらも抵抗力はなく区別つかない。物体が加速度運動した時、物体はエーテル大気の抵抗を受ける。全宇宙において、加速度=0の物体はエーテル大気の抵抗を受けない。このことはエーテル大気は全空間に亘り絶対静止しており、且つ均質であるという確かな証拠である。

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