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ドルトンの化学記号 
化学結合
メンデレーエフの周期律表
線スペクトル

15、元素の周期律表 

 我々人類は、太古の時代から様々な時代で様々な人々が、これ以上分割不能で始原粒子と思える物質を探し求めてきた。そして現在では、周期律表としてそれら原子の特性(質量、大きさなど)が一般にもよく知られている。しかし原子が終局的な極小粒子でないこともすでに知られた事実である。そして現代の先端物理学ではこの原子、陽子の内部構造および極小粒子の探究が「素粒子物理学」として多くの優れた科学者たちにより進められている。
 この章では初期に元素表が作成され、その後様々な記号が用いられメンデレーエフの周期表に至るまでの歴史的変遷を説明していくことにしよう。


15、1 元素表の黎明期 

 化学の発展は岩石や鉱物のような非金属から、銀、鉄、銅などを作り出す、錬金術とか冶金学とか呼ばれる技術から進歩してきたことは既に述べた。古代文明においても様々な学説が語られており、特に古代ギリシャでは全ての物質は始原粒子とか、元素とか原子とか呼ばれる究極的な微小粒子より構成されていると考えられていた。しかし、原子とか元素という言葉の意味さえ時代により異なった解釈がなされ、曖昧で不明確であったようである。
 そして近年(16,17世紀)になると、冶金技術も進歩し、純度の高い貴金属が生産され、更に多くの金属の種類が分離できるようになった。このように明確な分離が可能になると、元素に対する曖昧な言葉の意味を、もっと明確化すべきではないかと言う研究者も増えてくる。
 ボイルの時代には、錬金術用のビーカー、グラス、漏斗など便利な器具が多数使用可能となり、その結果複数の金属(金、銀、銅、鉄、鉛、水銀、錫など)が知られるようになる。そして、これまでのアリストテレスの4元素(空気、水、土、火)に代わり、ボイルは次のように述べている。ボイルは、多くの研究者が錬金術に没頭しているのを見て、「これからの化学は科学の進歩という高い観点から研究を進めなければならない」と喝を飛ばし、さらに「私は元素という語を、全く混合してないこれ以上分離できない物質という意味で用いる」とも述べている。ただし、彼はタレスの言う始原粒子の存在を信じていたので、複数の元素が存在するのは、始原粒子の結合状態の違いによるものだと考えていた。また、原子とはデモクリトスによると「総ての物体のこれ以上分割できない最小単位の粒子」という意味で用いられているが、この時代には元素ごとに原子が存在するのであると考える化学者も存在した。



15、2 ラボアジェの元素表 

 ラボアジェの時代には、ものが燃える現象に対し物体内部には燃える原因となる燃素(フロギストン)が存在し、それが大気中に放出されるためだと考えていた。そして科学者達は、フロギストンの原質を複数の異なった燃焼現象に対し、必要とする性質なら何でも持っている物質に作り上げていた。ある現象にはマイナスの質量をもち、別の現象には重たいし質量、またある現象には小孔を通過出来る物であり、別の現象には通過できないものであった。このような曖昧な説に疑問を抱いたラボアジェは、厳格な実験と卓越した論理により、フロギストン説を完璧に否定し、葬り去ったことは第6章で記載した通りである。
 このフロギストン説は、驚いたことに現在の「光と電子が、ある時は波でもあり、ある時は物質でもある」という二枚舌の説と酷似している。こんな曖昧な科学が長く続いてもよいのだろうか?
 ラボアジェは、フロギストン説を覆しただけでなく、酸化における様々な実験結果から、空気が2種類の元素からなることを見出だし、それぞれ酸素と窒素という名前を与えた。そしてボイルから由来する化学元素を、彼独自の判断によりボイルが出来なかった元素表として30種類以上の元素を「化学原論」(1789年)として公表する。
(A) 自然界に属する元素
 酸素、窒素、水素、光、熱素。
(B) 非金属の元素
 リン、イオウ、ホウ酸、塩酸、フ酸、木炭。
(C) 金属の元素
 銅、金、鉄、水銀、銀、白金、亜鉛、マンガン、コバルト、ヒ素、ニッケル など。
(D) 土類
 粘土、石灰、マグネシア、バリタ、ガラス土。
 * この元素の種類が歴史上最初に作られた元素表ではないかと考えられている。


15、3 ドルトンの化学記号 

 ドルトンの時代(1800年ころ)には、元素、原子、分子および当量、原子量などの言葉の定義が出来る程の知見が揃っておらず、研究者により多少の相違が存在した。ドルトンは原子に対し次のように捉えていたようである。
(1)元素ごとに、これ以上分割不能な微小物質があり、その物質を原子と捉えていた。即ち元素の数だけ原子が存在するということである。
(2)各原子の量は、相対的に与えられる。そして彼は、水素の量を1として、相対的な原子量を与えた。中には酸素の原子量を100として、相対的な原子量を測った者もいた。
(3)各原子の周りには、固有の熱雰囲気が存在し同一原子同士では斥力として働き、したがって同一原子は結合不能(分子を作らない)と考えていた。然るに、1個の原子は別の1個の原子と結合し、分子を作るのであると主張した。
(4)ドルトンの原子説では30種程度の原子や化合物が存在したが、その当時このような多種の原子を神が創造したとは考えにくいという学者も多数存在した。
(5)彼の元素表では、独自の元素記号が使用されていた。しかしあまり評判の良いものではなっかった。


          表:15−1 ドルトンの元素記号と原子量 




 * ドルトンの元素記号はその後、新元素や化合物が発見されるのにつれ使いずらくなってきた。そこで化学者たちは原子名の頭文字または二文字をとって元素を表す記号を提案する。また化合物などを表す際は(H2O)のように記号の右下に原子数を記すようになる。更に、化学反応を分かりやすく表現するため {H+Cl=2HCl} のような化学方程式が用いられるようになる。ここでHは水素、Clは塩素。

15、4 化学結合 

 新元素の発見とは別に、自然界に実在する鉱物、液体、気体などは異なった元素同志が結合し化合物を作り、更に化合物同士が結合し複合粒子へと成長するのではないかと考える研究者も現れる。そこで化学者たちは、何故元素や化合物が結合したり分離するのだろうかという素朴な疑問を抱くようになる。
(1)化学的親和力
 多数の化合物が実在する原因として、親和力という概念が古くから存在した。また、電気力が引き合ったり、反発し合ったりすることも知られており、この親和力は電気力によるものだと憶測されていた。また重力によるのではないかと考える研究者もいた。また、各原子の周りには熱雰囲気があるという概念も存在した。
 さらに時代が進み技術などの進歩に伴って、実験道具、分析技術、および多くの観測データが蓄積されるようになると、この親和力も多岐に進化していく。
(2)分子、基、根 
 *分子:各元素に対し固有の原子があることが一般化してくると、次に化合物とは何かという疑問がわいてくる。研究者たちは異なった元素同志が反応して化学物質を作ることから、ある原子一個と別の原子一個が結合して出来る最小の集合体を分子と呼ぶようになる。
 イタリアのアボガドロは「等しい温度で同一の数の粒子は、気体の種類によらず同一体積を有する」という重大な真実を公表するが、50年近く公認されることがなかった。そのため、原子、分子、原子量などの定義や解釈には不正確さが常に付きまとっていた。1860年、イタリアのカニッツアーロが第一回国際化学会議で、アボガドロの仮説がいかに重要であるかを説明した。これにより原子、分子および原子量、化学当量などの言葉の意味が少しずつ明瞭化されてくる。
 *基、(根):1810年ころ、ゲイ・リュサックとテナールはシアン化水素の研究をしていたが、シアン(CN)の分子が炭素と窒素の原子に分離することなく他の原子と化学反応し、別の化合物を作りだすことを発見。このように、原子と別の原子が反応して化合物を生成するが、その化合物が一つの原子団となって、他の原子や化合物と反応することがある。このような原子団を基(又は根)と呼ぶ。
 この基の概念は、後の有機化合物の大きな分子構造を説明するのに役に立つことになる。
(3)化学当量、原子量 
 *化学当量:ドイツのリヒター(1762〜1807)は、ある塩基の一定量と中和するに必要な、酸の一定量とが正確に同一の質量比であることを確認した。このように、化学反応においては、ある元素の一定量は他の元素の一定量と反応するという「当量」という概念が存在した。例えば、水素の質量”1”と酸素の質量”8”とが化学反応し一定量の水が生成されたとき、水素の質量1に対し酸素の化学当量は8となる。
 *原子量:ある原子に対する別の原子の化学当量が確定してくると、一個の原子と一個の原子が反応したと考えると、ある原子に対する別の原子の質量が確定する。例えば、ある原子の質量を1とし、別の原子の化学当量が5であった場合、別の原子の質量は5となる。ドルトンは水素の原子量を1と定め、他の原子の化学当量から原子量を測った。
(4)電気の原子、型(族)の理論 
 *電気の原子:1832年にファラデーが電気分解の第一法則および第二法則を発見したことは、5,3,1 ですでに述べた。この二つの法則から、電気とは物質の原子と同様これ以上分割できない「電気の原子」があると考えられた。即ち、電気が溶液中を流れる際、多くの場合物質原子が一つ別の極に運ばれる際、電気の原子も一つ流れるが、運ばれる物質原子の種類により、電気の原子が二つ、三つ流れる場合があると解釈すれば、電気分解の法則が理解できるのである。
 *型の理論:当時(1830年頃)世界で最も有名であった化学者ベルセーリウスは、原子や分子(基)が結合する力の本性は電気的であるという考えを持っていた。したがって結合する基や原子は、片方は陰性であればもう一方は陽性であると確信してた。
 ベルセーリウスの弟子のローラン(1807〜53)は、数多くの実験から、基や原子が結合する原因は、電気的であると解釈するのは正しくないと考えた。そして基や原子が結合できる原因は、それぞれの基や原子が結合できる核を持っていると考えた。即ち、水の分子(HO)の場合、酸素原子を中心に二つの水素原子が結合していると考えられる。又水素原子一個の代わりメチル基(CH)を一個置き換えるとメチルアルコール(CHOH)が得られる。
 この理論は、ベルセーリウスの理論とは真っ向から対立するもので、彼はローランに理論の撤回を求めた。しかしローランは決して諦めず証明する資料を集め続けた。危険を感じたベルセーリウスはローランを研究所から追放してしまう。その後、1848年ベルセーリウスが亡くなることで、ローランの理論も公認されるようになる。
(5)原子価、
 ローランの型の理論は当時の化学者たちに大きな刺激を与えた。
 イギリスの化学者フランクランド(1825〜99)は、原子または基には幾つかの結合力があることを示した。例えば、酸素は水素2個と結合し水の分子を作り、炭素は水素4個と結合しメタン分子を作成する。このように各原子や基が持つ結合力の数を原子価と呼ぶようになる。
 以上既知となってきた原子量、化学当量、原子価の概念から「原子価とは、原子量を化学当量で割った値である」という法則が自然と導き出せる。

15、5 分子構造式 

 原子価の概念はその後、有機化学分子や基の構造を説明するのに大いに応用された。
(1)簡単な構造式
 有機分子を構成する炭素は、例えば水素のような一価の元素と結合する時は四つの原子、二価の元素と結合する時は二つの原子、したがって炭素の原子価は4であるという結論に至る。しかし、次にこれらの複数の原子はどのような形で結ばれ、どのような構造をしているのであろうかという疑問が生じてくる。化学者たちは試行錯誤の末、誰もが共通に理解しやすくするためメタンやプロパンのような簡単な分子は、図15−2 のような構造式なる学説を提案する。
(2)同一化学式での異なった構造式
 エチルアルコールとメチルエーテルは化学式:CO:が同一である。しかし異なった性質の化合物であった。その原因は構造式の原子の配列が異なるためだということは容易に理解できる。しかしどのように異なるかを示すのは難解であった。研究者たちは、エチルアルコールにナトリウムを加えると水素が発生したが、メチルエーテルに加えても反応はなかったことを知った。また水素は炭素との結合力は強く、酸素とは弱かったことなどから憶測して図15−2 なる構造式を得る。
(3)ベンゼン:C:の構造式
 ベンゼンの構造式を定めるのは極めて困難な仕事であった。様々な構造式が提案されたが、どれも不安定で他の化合物と比較し大差なかった。この解決に功績をたてたのがケクレである。1865年乗り物の中でうとうとしながら図15−2 のような構造式を思いついたと言われる。
 このように構造式なる概念が定着してくると、今まで全く不明であった原子同志の配列などを憶測することが可能となる。しかしその信憑性は低く、特に原子同士を結ぶこの原子価とは何なのか、結合力の強さはどの程度なのか、など様々な疑問も生じてくる。これらの回答は科学の進歩により徐々に解決されてくる。


               図:15−2 分子構造式  




15、6 元素の周期律表 

 
15、6、1 無秩序の元素表 

 1830年頃までには50種類位の元素の存在が知られていた。新しい元素が発見されるに従い、元素の種類はどのくらい在るのか不安に駆られてくる。100種類か、1000種類かはたまた無限なのか。更には、各元素の特性や性質は大きく異なり、規則性や秩序を探すのは至難の業であった。その反面、元素の表に何らかの秩序を与えるという仕事は、化学者にとって魅力的な仕事でもあった。しかし相変わらず研究者の間では、原子、分子、当量、原子価などの言葉の意味は曖昧なままであった。
 そのような世情の中、1860年、第一回国際会議が開かれ、イタリアのカニッツアロが50年前にアボガドロが提唱した「アボガドロの仮説」がいかに重要かを根気よく説明する。それ以降、人々は原子量、当量などの概念がいかに重要かを知ることになり、原子の原子量順に配列する方法が採られるようになる。


15、6、2 オクターブの法則 

 イギリスの化学者ニューランズは、原子量の小さいものから大きい方に順序よく配列する一覧表を作成していた。そこで元素の性質にわずかな規則性が在るのに気付いた。即ち、七つずつ縦に並べると隣り同志が似た性質のものが来ることに気付いたのである。この規則性を彼は「オクターブの法則」と呼んだ。しかし、この規則は限られた元素にしか当てはまらなっかため、公に認められることはなかった。
 


15、6、3 マイヤーのグラフ 

 ドイツのロタール・マイヤー(1830〜95)は、ある原子の一定数の体積(原子容:1モルの体積)を縦軸に原子量を横軸にしたグラフに興味を抱いた。そのグラフでは、原子量が増えるのに従い原子容も増えるのではなく、周期的に原子容が増えたり下がったりするのである。例えば、リチウムで頂点となり、そこから下がり炭素で底となり、そこから上昇しナトリウムで頂点となるという具合で周期性を示すのである。しかし、何故そのような周期性を示すのかという科学的原因を究明するまでには至らなかった。


15、6、4 メンデレーエフの周期表 

   メンデレーエフはこの問題を原子量と原子価の関係から取り組むことになる。その当時、水素が1価、酸素は2価、窒素は3価そして炭素は4価を持つ典型元素であった。更に彼は原子量と原子価およびその性質との関連性を模索していた。彼は原子量が増加するのに比較し原子価は増したり減少したりし、ある一定の周期を繰り返すことに気ずく。更に原子価ごとにその原子の持つ性質(液体、気体など)も似かよっていた。そこから「ある特定の性質(族)の元素は、すべて同一の原子価を持つ」という規則のもと元素の周期表を作成する。しかし、実際は順序が異なる部分、未知の部分が存在し困難を要し不充分なものであった。ここまでの彼のした仕事は他の優れた研究者と大差ないものである。メンデレーエフの優れた功績は、この不充分な周期表を誤りとは認めず、空白の部分はまだ未発見の元素が存在するのだという大胆な解釈をした点にある。それだけでなくその未知の元素の性質の予測まで述べている。その後、分光器の発明によるスペクトル線の研究などから、メンデレーエフの予言した新元素が複数発見されることになる。


  表15ー6: メンデレーエフの周期表 

      
周期                       原子価、族                     
1化学記号
 原子量 
                    H                   Li 
                    1                   7

 
                      Be、B 、C 、N 、O 、F 、Na 
                      9 、11、12、14、16、19、23 
3 
 
                      Mg、Al、Si、 P 、S 、Cl、K 、Ca、  、  、  、  、
                      24、27、28、31、32、35、39、40、45、56、60、75

 
  Ti、  V、Cr、M 、Fe、Ni、Cu、Zn、  、  、 As、Se、Br、Rb、Sr、Ce、La、Di、 Th
 50、51、52、55、56、59、63、65、68、70、75、79、80、85、87、92、94、95、118

 
 Zr、Nb、Mo、Rh、Ru、Pl、Ag、Cd、Ur、Sn、Sb、Te、I 、Cs、Ba 
 90, 94,  96, 104, 104, 106,108,112,116,118, 122,128,127,133, 137

 
  、Ta、 W、Pt、Ir、Os、Hg、  、Au、  、Bi、  、  、 Ti、Pb 
180,182, 186,197,198,199,200,   、197,  、210、  、  、204, 207 




15、6、5 分光器と線スペクトル  

   多数の化学者たちの不断の努力により、原子、分子、原子量、基、原子価、化合物などの意味が明確化され、更に元素の周期表までたどり着く。しかし、謎はまだまだ深まるばかりであった。何故原子は一つでなく複数あるのか、原子の内部構造はどうなっているのか、原子価と族の関係は、原子量は何故正確に水素の整数倍ではないのかなど。その様な混迷する時期に力強い光明を投じたのが、分光器の発明である。
(1)分光器の発明
 太陽光線が雨の中を通過する際できる虹の現象は古くから知られている。プリズムを使用するとこれと似たような現象が起こることが、ニュートンの時代でも知られていた。また光の波長に関してはヤングやフレネルの回折実験などから測定可能であった。1850年ころには、塩を燃焼した際生じる炎をプリズムで分光すると固有のスペクトルが得られることは知られていた。
 ドイツの物理学者キルヒホッフ(1824〜87)はブンゼンと共同で、プリズムを用いて、ブンゼンの製作した炎が無色のバーナ(現在のブンゼンバーナ)で実験していた。太陽光線をプリズムを通して観察すると鮮やかな色のスペクトルと複数の黒線が表示された。次に幾種類かの化合物をバーナで炎焼させたところ、その種類特有の線スペクトルを放射することを観察。又光の波長は正確に測定可能であったのであるから、各スペクトル線の波長も確定できる。キルヒホッフたちはついに原子固有の正確な指紋を得る強力な手段を獲得したのである。このように原子固有の線スペクトルを分析するのに使用される道具を分光器と呼ぶようになる。
(2)フラウンホーファーの黒線
 ドイツの技術者フラウンホーファーは1814年に彼が自作した三角形のプリズムで太陽光線を通して観察していた。その時多数の色のスペクトルに混ざり何本かの黒線を発見した。この黒線は現在では次のように解釈されている。
 各原子はその原子特有の線スペクトルを放つ。逆に白色光が原子に当たれば光は線スペクトルに該当する波長の光波が吸収されてしまうだろう。したがって黒線が生じるのである。この理論より、太陽や恒星も地球にある原子と全く同じ原子で創造されていることが分かった。
{教訓}:正しい理論からは、正しい結論が導き出せる。しかし間違った理論や原理からは、正しい結論は導きだせない。
  (3)新元素の発見
 このような分光器を手に入れると、適当な化合物を燃焼し、これまで知られていない線スペクトルを見出すことにより新元素を発見できるようになる。ブンゼンとキルヒホッフはある鉱物を燃焼しているとき、異常なスペクトルを検出した。詳細に観察した結果ナトリウムとカリウムに似た金属であることが分かった。この元素はセシウムと命名された。新元素の発見である。
 フランスの化学者ボアボドランも分光器での分析を始めた。1875年、未知の線スペクトル発見しガリウムと命名した。メンデレーエフはこの発表を知り、この元素は彼が周期表で予言した元素であることを指摘する。その後もメンデレーエフの周期表の空白に相当する元素が発見され、一般にもその正しさが認められるようになる。


15、7 原子番号とは  

   周期律表が正しいことが認識されてくると、原子量の増加にしたがって何故周期的に原子の似かよった性質が繰り返されるのだろうかという疑問が浮かんでくる。その後、線スペクトルの研究が盛んとなり、1884年にはバルマーなどにより水素の線スペクトルの波長の間には一定の規則性が在ることが発見され、複数の系列が在ることが知られる。
 されに1897年にはJ・J・トムソンにより電子が発見され、原子とは最小の粒子ではなく、内部に電子を含んだ構造を持つことが分かってくる。次に、原子模型として、電子がスイカの種のように分散したスイカ型模型と、中心に核を有し周りを電子が回転する土星型模型が考案される。
 又、1911年にはラザフォードの散乱実験から、原子とは中心にプラスの電荷を持った核を有しその周りをマイナスの電荷を持った電子が回転していることが明らかとなってくる。そのことは 5、4の原子核 11、1の原子の構造で記載した通りである。そして、核の電荷の大きさを原子番号と呼ぶようになる。


 

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